おじいさんの崩壊

パクったり、常識を超える引用しないでね。
 

「猫の手」を売っている店の隣に交番がある。警官が、机に向かってかりかりと書類をつけていた。人のほとんどいないシーズンオフの観光地は、寂しさとけだるさと居心地の悪さが一緒になった、なんだかやりきれない空気で、人の往来もほとんどない。車もほとんど走っておらず、事件らしい事件も起きそうには無かった。警官は書類を書き終えてパンチで穴を開けた。紐を通して書類をファイリングした。警官はじっと向かい側の書店を見つめていた。そして、一つ大きなあくびをした。地球の酸素全てを自分のものにしようとするほどの大きなあくびだった。

 パソコンの電源を入れ、起動するまでを、ぼんやりと待っていた。起動しても特にやることはなかった。オークションサイトをぼんやりと眺めていた。世の中には、こんなに買った自分とはつりあわない物がある。邪魔で処分したいものがあふれている。そしてそれが身の丈にあったものだと感じて買い取る人もいる。もしもこれを実世界で行うとしたらどうなるのか、東京ドームいくつ分だろうかと、暇に任せた妄想を警官は辿っていた。
 支給されている自分の銃をオークションで売ったらいくらになるだろうと考えたとき、電話は鳴った。
 「もしもし」と答えた。
 息切れというよりも何かに苦しんでいるような、そんな息遣いしか聞こえてこなかった。
 「もしもし」と、警官は再び言った。
 息遣いは更に荒くなった。ぜいぜいという息遣いの切れ間に、何かを言っているのだが、聞き取れなかった。
 「もしもし、どうしましたか?」と警官は言った。
 「…くれ」と声の主は言った。息切れは徐々に元に戻りつつあるようで、それが老人の声であることがようやく分かった。
 「もしもし、どなたですか?」と警官は言った。面倒に巻き込まれるな、といった予感がした。
 「私を、捕まえてくれ」と声の主はせわしない呼吸の狭間で、はっきりと言った。
 「どこにいらっしゃるんですか?」と警官は言った。
 「丸岡町41-22と書いてある。早く捕まえてくれ」と声の主は断定形ではっきりと言った。
 そこを動かないようにとだけ言って電話を切り、警官は自転車に飛び乗った。無線で応援を要請しながら、必死に自転車をこいだ。
 
 風景が今までにないスピードで飛び去っていく。指定された住所までたどり着くのに、警官は5分とかからなかった。
 たどり着くと厳しい顔をした80歳ほどの老人が立っていた。きちんとした灰色のジャケットと黒いスラックスで、白いワイシャツにもアイロンがかけられているのがはっきりと分かった。少ない髪も後ろに撫で付けられていた。薬指の指輪がきらきらと光る手の甲の血管が、はっきりと浮き出ていた。脇腹を押さえながら若干辛そうに立っていた。
 警官は「電話をしたのはあなたですか?」と聞いた。
 老人は、「そうだ」と答えた。
 「何があったんですか」
 「私は人を、たった今、殺したんだ」
 老人が、はっきりと、言った。警官を見つめる鬼のような視線が、苦痛に歪んでいた。
 警官は老人に凝視されながら、あたりを見渡すが、何も起こってはいないようだ。どこの家にも何の異変も見当たらなかった。
 警官は老人の凝視に必死に耐えていた。苦痛と自戒に満ちた般若のような顔だった。
 老人は表情を変えずに視線を上にそらした。警官も視線の先を追った。しかし、瓦屋根ばかりで何も意味を見出すことは出来なかった。二階建ての瓦屋根が地平線を形作るほどに、どこまでもどこまでもひたすらに広がっていた。
 老人の視線の移動は続いた。目が泳ぐというのではなく、何か明確な意図で移動しているということが感じられた。老人の視線が彼の足元を見つめていた時、「竹中さん!どうしたんですか!」と言う大声が瓦屋根に反響した。二つわけの三つ編みで、エプロンをした太った女が警官と老人のもとに走りよってきた。
 警官が「通報があったものですから」と言った。とても間抜けに聞こえた。
 「ちょっと痴呆があるんです。ですので、多分、何もないです。さあ、竹中さん、帰りましょう。今日はお風呂の日ですよね。お風呂気持ちいいですよ」と女が言った。彼女は老人ホームで働くヘルパーだということが分かった。丁寧語を使いながら老人を自分のいいように扱う感じを受ける慇懃なものの言い方だった。老人の手を綱引きのように引っ張っているが、老人は全く動こうとしない。
 「ここはどこだ?」と老人は呟いた。
 「ほら、警察の方に迷惑じゃないですか。早く行きましょう、老人ホーム帰りましょう」と女は言った。
 警官は、職業的観点から、老人に質問をした。
 「ここは丸岡町41-22です。あなたは誰を殺したんですか」
 老人ははっとした様子で答えた。
 「私は丸岡町にいる。いや、ここは満州だろう。満州だろう」
 ヘルパーが間に割って入った。
 「本当になんでもないんで、大丈夫です。ちょっとぼけてきちゃってるんですよ」
 と言いながら手を掴んで引っ張っていた。しかし老人はびくともしなかった。しばらく面倒くさい押し問答が続いた。
 老人とヘルパーの綱引きを見かねて、警官は、ヘルパーに言った。
 「すいませんが、ちょっとの間、よろしいですか?嫌疑が晴れた訳ではないので」
 ヘルパーは「嫌疑」と言う言葉に敏感に反応したようで、「わ、わかりました」と妙に慌てた様子で手を引っ張るのをやめた。
 「ここは日本の丸岡町です。あなたは、誰を殺したんですか?」
 「私が殺したのは、誰だ?満州じゃないのかここは。何故ここは満州ではないんだ。戦争は終わっているんだ。日本は連合国に敗れたんだ。世界を敵に回した最前線に私はいた。満州に私はいるんだ」
 老人が支離滅裂に「満州」、「戦争」、「殺した」を繰り返し始めた。重たい足取りで、ゆっくりと一歩一歩警官に近づいてきた。苦痛に歪んだ表情は変わらないが、老人の視線が虚ろになりつつあった。どこかを見てはいるのだが、焦点がまるで合っていない。何かを睨んでいるのだが、それが何か警官には全く分からなかった。
 ヘルパーが再び割って入った。「ちょっとぼけちゃっているんで」と老人の話を無理やり遮るように言った。警官はヘルパーに「黙っていてください」と言った。
 老人は警官に、「今はいつだ?何年だ」と尋ねた。
 「平成17年、2005年、第二次世界大戦大東亜戦争が終わって60年が経ちます」と答えた。
 老人は、「そうか。そんなに経ってしまったのか」と、ぽつりと言った。小さな溜め息をつき、そして深い息を吸い込んだ。とても痴呆とは思えないほどのしっかりとした受け答えだった。
 老人は滔滔と語りだした。その流れは潮の満ち引きよりも力強く、口調は明快ではっきりとしていた。荒かった呼吸も、だいぶ取り戻していた。
 「私はその時二十歳だった。右も左も分からないような、今の若者よりもよっぽどだらしない若者だった。戦争が起きたと言うこともろくろく分からず、ただ新聞の口調が怖くなっていったのは覚えている。そうこうしているうちに赤紙がやってきた。父は既に死んでいて、母と二人暮しだった。他に知り合いもろくろくいないし、私と母とは、何とか暮らすのでやっとだった。日雇いの仕事と盗みで何とか食べていけた。母は、赤紙が来た途端、わっと泣いた。『お前も死ぬんだね』と言った。私は国家的な自殺に加わることになった。私は、人を殺さなくてはならないのだと言うことが分かった。それが昭和18年の年末のことだった。町には老人しかいなくなった。子供達は皆どこかの田舎に疎開していた。若い男は皆連れて行かれた。私にもその順番がやってきたのかと小さな溜め息をついた。本当に小さな溜め息だったんだが、母は見ていた。そして、『お前は人を殺すんじゃないよ。そんなつもりでお前を育てた覚えはない』と涙をぼろぼろこぼしながら言った。私は、『銃は全部宙に向けて撃つ』と母に約束した。それだけは守れた。
 それから先は順番が分からない。満員の船の中にいたことや、ひどい空腹で変な草を食べたこと、順番が消えて一度に私にやってくる。お前は今一瞬だけ生きているのか?」
 老人が警官に聞いた。それは切実な質問だった。警官は、「いいえ」と答えた。
 老人は満足した様子で話を続けた。ヘルパーのつけているエプロンが風にひらひらと揺れていた。ヘルパーはそっぽを向きながらガムを噛んでいた。警官はヘルパーを睨みつけた。それはとても当然のことのように思えた。
 「色々なことがいっぺんに起きた。私はその時間を生きた。そして今も生きている。私は頭の中に染み付いた記憶を消すことは出来ない。私は人を殺したんだ。その瞬間を抱えながら、60年が経った。私は銃を全て空に向けて撃った。母の言いつけ通りにした。出兵間際、電車に乗るときに、母が、『生きて帰って来るんだよ。誰も殺すんじゃないよ』と叫んだ。駅にいた人が全員母に注目した。電車は進んでいった。母は私を走って追いかけてきた。それを憲兵が追いかけていた。目の端で母は憲兵に取り押さえられたようだった。警棒で殴られているのを電車から見たのが最後だった。
 私はその憲兵を憎んだ。そして私は人を殺した私自身も憎んだ。現在も憎んでいる。おめおめとこんな年まで良く生きていたと自分でもぞっとする。母は警棒で頭を殴られ、取り押さえられ、牢屋に入れられたと言うことまでは分かった。それ以降の所在が分からないまま、私は一人きりで生きていた。何度も探したが、結局見つからなかった。体がぐちゃぐちゃになってしまうくらいに探した。多分どこかで死んだのだろうということは、おぼろげに分かっている。その後私は結婚もし、子供も出来、傍から見れば幸せそうな家庭が出来ていた。だが、私は一人きりだった。夢の中を歩いているような気分になった。
 それは何かのポーズだったのかもしれない。私は何もかもを忘れるために働いた。そして、何もかもを忘れるために幸せに振舞った。いつの間にか老人ホームに入れられ、余生と言われる無駄な時間を淡々と過ごしている。半ば死んだものだ。
 だが私は母が憲兵に殴られた今をどう取り返せばよい。私はこの記憶箱、脳味噌なんていう忌々しいものに縛り付けられながら、生きながら死んでいる。死にながら生きている。
 満州で死んでいれば良かったんだ。私は、銃剣で人を刺した。何の感触も無かった。誰の命令でもなかった。殺した人間は中国人の兵隊だった。太った男だった。鉢合わせになって、相手が剣を取り出した。私は殺されることが怖かった。構えていた銃剣で威嚇するだけだった。ちょっと脅かして、相手が驚いて逃げ出せばそれでことは済んだはずだった。だが、彼は私のほうへ飛び込んできた。吸い寄せられるように飛び込んできた。私は構えていた銃剣を引っ込めようとした。しかし間に合わなかった。間に合わなかった。」
 老人の眉間に皺がよった。深い皺の谷底から、老人の話は続いた。
 「私はその瞬間を生きたし、今もその瞬間を生きている。太った男だった。つやつやと丸い、いい顔だった。その男に、銃剣が、ちょうど、みぞおちに…。」
 老人の頭の中では、過去が暴走を始めたようだ。現在を飲み込みながら、過去がいっぺんに老人に降りかかっていた。過去はその位置づけを明確に定義した。老人の口は、もはや老人の口ではなかった。巨大な何かを代表して喋っていると感じた。
 「お前の影は過去じゃないのか?だとしたら何だ?お前の影は何を背負ってるんだ?お前の影は過去じゃないのか?じっと自分をを見つめながら、死ぬまで付いてくる。お前の影は過去だろう。後ろからじっと見つめられながら、俺は平気じゃいられなくなった。俺は俺のしたことを全て影にして歩いている。だから警官さんのよりも暗い影をしているんだ。俺は影が怖くて怖くて仕方がないんだ」 老人は涙を流しながら続けた。警官は何も出来ず立ちすくんでいた。
 「時効かそうじゃないかは、私自身の問題なんだ。私は戦犯として殺されるべきなんだ。今の日本では私のような人間を処罰できないのか。私の罪を洗い流してくれる罰は今の日本にはないのか?私には罰はないのか?警官さん、あなたは私を逮捕することで私が中国で行った罪の一端を清めてはくれないのか?私の悪夢を消してくれないのか?私が何にも知らない子供のままで中国に行って、そこで人がたくさん死ぬのをこの目で見たんだ。船に乗せられて、帰ってこれたのは僥倖だった。死体は珍しいものじゃなかった。そこかしこでいろんな人が死んでいた。私は、自分の身を守ると言った大義名分のために、人を殺した。返り血を浴びた。何とか助けようとしたが、そんな馬鹿な真似はやめろと上官に言われた。私は母に言われたんだと言った。人を殺すんじゃないと言われたと上官に叫んだ。上官は、『ここは戦場なんだ』と呟いた。その呟きを、私はしっかり聞いた。今でも耳元で言っている。『ここは戦場なんだ』
 殺人が何人だったかなんて問題にならない。私は殺したんだ。私は人を殺して、その罰を受けるべきなんだ。日本は今戦前だろう。平成17年は戦前だろう。警官さんも憲兵になって、『生きて帰って来い』と言った人を捕まえて牢獄に閉じ込めたり、警棒でひっぱたく役目を負うんだろう。それかミサイルの発射ボタンを押すんだろう。ミサイルは発射されて何千人も木端微塵になってしまうんだろう。木端微塵になった肉を犬がばりばりと食べるんだろう。骨と皮しかないひょろひょろの兵隊が山を登るんだろう。誰も喜ばない世界が、もう目の前に来ているんだろう。平和なんて嘘っぱちで、戦間期でしかなかったんだ。私は、そうなる前に罰を受けるべきなんだ」
 老人は、そこまで言って、固まった。瞳は開いているだけで、何も見ていなかった。老人の周りの時間が止まってしまったようだった。
 警官は、手錠に手をかけた。ケースから取り出し、その冷たい感触を人差し指で確かめた。
 唐突にヘルパーが、老人の頭をパンとはたいた。まるで漫才でもしていたかのようなはたき方だった。後ろに撫で付けられていた頭が、左に乱れた。
 「おじさん、怖い顔してどうしたの?」
 老人が子供のような声で目を丸くしながら言った。
 「最近調子が悪いんですよ。おまわりさん、気にしないで下さいね。何かテレビみたいですよねこんなのって」
 とヘルパーがこともなげに言った。警官は、丸くなった目が戻らなかった。
 「すいません。もうよろしいでしょうか?」
 とヘルパーは言った。警官は、ただうなずくことしか出来なかった。